目に見えないもの。
たとえば、心がそれだよねー。というようなことを、ぼんやり、前回僕はブログに書いた。
芸術家が扱うものは、すべからく最終的に目に見えないものである。
そのことを最近思う。
このことを、すこしでも実感するのに僕は30年以上を要した。
聞き覚えのある言葉なんて、たくさんある。現代は、偉人の名言がコンビニに売っているような時代だ。名言慣れ。求めていなくても、身体が反応してしまうような言葉をコピーライターは用意するし、求めていなくても、ネットをひらけば一日に一言は、偉人や、現代を活躍する人々の名言を横目に眺める羽目になる。名言慣れ。
演劇を齧りながら生きていると、演劇的な名言にも、まるで小石を蹴ってしまうような頻度で出くわす。これがやっかいだ。
体感することと、言葉を知っていることはまるで意味が違うのに、知った気になってしまう。同じ言葉でも、その言葉の裏口まで回って、その言葉の塀の内側を除いて、1回ぐらいは玄関をまたいで、その言葉と仲の良い言葉とご挨拶して、あらためて家の正面に立つのとでは、言葉に対する感覚、体感がまるで変わる。
えーと、そんなことが言いたかったのではない。
目に見えないもの。
目に見えないものの話をすると、オカルトとか、宗教という話にすぐなる。
ということが最近、これも、最近わかった。
僕は別に幽霊が見えるとか、守護霊が見えるとか、そういう人間じゃないけど、たとえばそういうこともあるかもねと思うこと、と人間に感情があることを信じること、何が違うの?と思う。
どっちも証明できないじゃんと思う。
そして、芸術家って、その目に見えない、何かを、何かのかたちを通して、生む人たちのことなんじゃないの?と思う。
自分の力でできることなんてたかが知れている。最近はよくそう思う。これは、みんなで協力しあおうよ、とかそういうことを言っているのではない。それはもちろん大切なことだけど、いま言いたいのはそういうことではない。
かと言って、いま僕が何となく書かんとすることがらについて、言葉を尽くすのも違う。
それは、感情って存在するのかしないのか、を、ここで説明しはじめることに近いから、ちょっと僕は面倒くさいのでしない。
ただ、前回の僕のブログを見返していたら、最後の文章の下にしばらくスクロールする余白があり、しばらく空白の行を通り過ぎたのち、1番最後にひとこと、「みた」 という文字があった。
僕には、その言葉を書いた記憶はまったくない。とはいえ、推測するだに、それはほぼ間違いなく僕のただの打ち間違いで、そんな場所に「みた」の二文字が打ち込まれているだけなのだ。
それでも、僕は、その二文字を目にした瞬間、すこしゾッとして、すこしホッとしたのだ。
神さまはいる!!!
とかそんなことを言いたいわけじゃない。
でも、この打ち間違えを、ただ打ち間違えただけと捉えるより、もっとおもしろい生き方があるんじゃないか。
僕は、その二文字を読んで、あらためてそう思ったのです。
以上です。