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  • 執筆者の写真ふじおかんたろう

ハラスメントについて、まだ今はあまり書けないけれど、それでも少しだけ書くブログ

※追記しました。(2022.7.20)

最後に追記してあります。



ハラスメントについて、何か発信したい気持ちと、今発信すると、心と身体がたいへんなことになって、また入院する予感と、けれど、そうこう言っているうちに、何かが風化されてしまう危惧があったり、でもやはり少し調べ物をするだけで、身体中がぐわんぐわんしてしまって何も手につかなくなる。


一方、告発された方は、ぐわんぐわんでは済まず、現在進行形で身体が軋み、心が悲鳴をあげ、それこそ何も手につかない。そんな中、自分はとにかく自分の仕事や生活を守っていて、それでいいのか?という思いと、ただ自分の健康は自分しか守れないという思いに揺れる。今年は年始から、まったく休みなくただ生きて仕事をするだけで、その〆切の量に、基本的に常に動悸がおさまらない日々で、ただでさえギリギリである。(「忙しさで人は本当に命を落としうるから気をつけろ」と友人に忠告された。肝に銘じた。)


すぐに何かを書く余裕がない。

というか、ハラスメントについて、何かを発信するに当たって、自分自身とちゃんと向き合わないことには書けないと僕は常々思っていて、ずるずると時間ばかり過ぎてしまった。まだ現状まったく余裕がない。


ハラスメントについて考えだすと、自分の演劇体験や家庭環境の全てが芋づる式にくっついてきてしまい、すぐに言葉が出せない。



ただ、では、演劇界、このままでいいのか。演劇界が変わったとして、「誰かが変えてくれた。」でいいのか。というか、変わるのか。いや、変わらないといけない。


忙しすぎることは、非常によくないと常々思うけれど、「自分をギリッギリなんとか守れるぐらいのハードスケジュール」はつまるところ、「大切な人を守る余裕や時間」すら奪ってしまうということだ。

いかん。


とりあえず、しかし僕は、今僕が僕に客観的にアドバイスをするなら、無理に発信しなくてもいいと自分に言う。

また、世界自体にそうあって欲しい。

とか思いながら、、書いている。。


あらゆる社会問題において、発信し批判しないことは、その問題を肯定しているのと結果的に同じであるという考えは理解できる。ただ僕は、SNSで発信するかどうか、にそこまで多くのことを課したくない。SNSに対して、「このフィールドで必ずしも発信しない」という選択肢はあった方が良いと僕は思っている。(「発信しない方がいい」という意味ではもちろんない。)


また、その場にいて加害を止められなかった者もまた加害に加担しているという考えは、とても理解はできるけれど、これも強要したくない。被害にあった人に僕は同じ言葉を言えない。「嫌だと言えばよかったじゃない」なんて言えない。

「抗えなかった側」を糾弾する思考の流れにもっていきたくはない。

「抗う」も選択肢、「逃げる」も選択肢。その時に「耐える」を選んで、より苦しくなってしまう人を、僕は責められない。

「誰も守ってくれない」そう思った経験は何度もあるけれど、特に責める気持ちはない。

足がすくんでしまったこと、勇気が出せなかったこと、つい自分の身を守ることを優先してしまったこと、たくさんの後悔はあれど、それらは当人が反省すればよいと思う。「それはダメだ!」と言えるようになりたいと僕は個人的に思う。



しかし、その上で、風化させたくない。

とりあえず今告発されている問題をうやむやにすべきではない。


少なくとも、第三者による調査が行われてほしいと思っている。実際既に動いているようで、それは本当にありがとうございます。


僕は、一旦自らの身の健康を守る。


ただ、いま起こっている問題が、もみ消されたり、なかったことにされることを看過することは、できないし、したくない。

し、僕は、なかったことにする演劇界にいたくはない。


僕の中にも古い価値観がたくさん流れている。


一昨年ぐらいに、M1を第一回からまとめて見て、こんなにも「誰かを傷つける笑い」がたくさんあったか、と驚いた。でも、きっと自分は当時あまり気に留めていなかったのだ。そして、会場も笑いに包まれていた。

僕はもうあまり笑えない。

価値観の確実な変化を感じると同時に、簡単に糾弾はできないという気持ちもある。


だめだ。やっぱりもっと向き合わないと書けない。そして、ひとつの正義が何かを糾弾することに僕は、警戒心をすぐに持ってしまう方なのだけれど、けれど、


それでも、ハラスメントの告発をされた方の勇気と現在進行形の痛みを思う時に、この流れが風化しないことを、もう同じことが起こらないように。いや、もっと直近のことを言えば、うやむやでない、第三者の調査を望みます。

ちょっとすみません。今はこれ以上は、身体と生活が保たない。

頭と胸と首と胃と腸にくる。。


健康で、今動ける人が動く!

今助けられる人が助ける!


が基本だと思っている。


圧倒的に言葉が足りない。向き合う量が足りない!


ちょっと、ここまで。

僕の理解が足りなくて二次被害的なことを書いていないとよいけれど、書いていたら指摘して下さい。自分の至らなさを引き受けるところからはじめるしかないと思ってもいます。それは、僕だけではなく。

認めるところはどんなにリスクがあろうが失うものがあろうが認めて、変えるところは変えて、何かをすべて一新したり禁止したりするのではなく、想像力と敬意を大切にしたいのです。(しかし時に強引に変えないと変わらないこともあるよなとも思いつつ。)



※追記


主に以下の文章に対しての補足です。


ちょっとすみません。今はこれ以上は、身体と生活が保たない。
頭と胸と首と胃と腸にくる。。

健康で、今動ける人が動く!
今助けられる人が助ける!

が基本だと思っている。

まず、今、ハラスメントを減らす・なくすために立ち上がり、矢面に立って発信・活動されている方に対して、それを「健康だからやれている」とか「余裕があるから発信できる」「やりたい/やれるからやっている」と僕は思っていません。

けれど、どうしても、上記の文章が、「今活動している人は健康だからできている/やりたいからやっている」みたいに伝わってしまい得ると思い、追記しています。


僕としては、「まだ動いていないけれど、動こうかと思っている人動きませんか?」というようなつもりと、本当にとにかく(書いた当時の)自分に時間的な余裕が、本当になさすぎてあまりに身動きが取れなくて、「う、動ける人〜!!」というような気持ちで書いた文章でした。また、その「動ける人」という言葉の対象をさっぱり明確にしていなかったことで、今、すでに頭と胸と首と胃と腸をキリキリさせながら戦っている人たちに対して、願っていないメッセージを発し、時にボディブローのような孤独を届けてしまったように思い、追記しています。(「既に痛みを抱えながら動いている人を助ける・連帯する」というような意味で、「動ける人が動く」という言葉を選んでいました。)

僕のブログを読むことで、頭や胸や首や胃や腸をキリキリさせてしまった方、申し訳ありません。そんなつもりはなかろうが、僕の言葉や思考の甘さです。


「僕は身体や生活が保たないから、動かないけど、最前線で戦っている方々引き続きよろしくお願いします!健康で今動ける人が動きましょうね!それが基本だよね!」

みたいに伝わってしまったら、本当にごめんなさい。「そうとしか受け取れないだろ」と言われたらぐうの音も出ません。


「誰だって矢面になんて本来立ちたくないし、矢面に立つことで、フラッシュバックや二次被害、心身のダメージは計り知れず、そもそも余裕なんてないし、変なナイフも連日たくさん身体に刺さるし、改善がされないまま事態が経過していったり、発信される方は、それでもなんとか行動をしている。」というのが僕の理解です。もっとも心身のダメージについて、僕は、僕が簡単に「分かる」なんて言えないと思っています。



ハラスメントをなくすための動き、MeTooの運動に、僕はたくさんの勇気と知見、自らを振り返る機会をもらっています。(もちろんまだ始まったばかりです。)その動きの中には僕の知人も大切な人もたくさんいます。たいせつな人が言っているから賛同するという訳ではありませんが、(それはアクションの動機として危険だとも思うので)それでも、どうにも忙しくて頭が回らずただただ時間が過ぎてしまう前に何かを書きたくて、ガガガと書いて投稿したら、言葉が全然足りていませんでした。すみません。


また、今「発信しない選択肢」について語ることは果たして有効なのか、改めて読み返して、ここはしばし考え込んでおります。個人としての考えは正直変わっていないですが、「発信しない選択肢」について今書いても、事態は直接的には何も変わらないこと、変わらないどころが場合によってはブレーキになり得てしまうこと。(ブレーキをかける目的で書いてはおりませんが、言葉がそういった働きをしてしまうこと。)




「〜基本だと思っている」については、

僕の中で、「誰かを助ける際、その時助けられる人が助ける」でいいのではないかという思いは広くずっとあって、それは「今助けられないことで自分を責めない」ということと、「本来的にはまず自分自身を助けないと(健康でないと)、結果的に他者を助けられないのではないか」という思いがあるからです。でもしかし、では「決まった何人かが結果的にずっと助ける側に回っている時」や「そもそも助けがたくさん必要なのに、人手が足りない場合」、「助けるも何も、自らの生活と地続きの問題なので関わらないことが不可能な場合」など、そのにこの考えが当てはまるのかと言えば全然そんなことはないなと、今思っています。そしてハラスメントの問題について言えば、被害者の救済という「誰か」だけの話ではなく「わたしたち」の話でもあるので、「それが基本」という思いは僕の中に未だにあるはあれど限定的な話であるなと、今は認識しています。



自分が何かを書くことで、二次被害を生んでしまうのではないか、(あるいは生んでしまったのか、)一度そう思うと、なかなか追記することも怖くなり、ブログの投稿から随分時間が経ってしまいました。(なんて書くと、あれ、これは加害者が被害者ぶってる思考なのか?と思ったりもしています、今。ちなみに、怖いけれど書くと、個人的には加害者が被害者ぶる思考回路って、僕は正直、そうじゃない人いるのかしらと思うぐらい多かれ少なかれ誰もが持っている傾向では?と思っています。だからしょうがないとかでは全然なく、その辺りも含めて自分ごととして考えたいと思っています。どんな「不安」が、その人を誠実ではない行動や態度に導くのかが気になっています。)


僕が書きながら反省したり学んだりすることそれ自体は良いことかと思いますが、その過程で誰かを深く傷つけているとしたら、「そんな文章公開せずに勝手にこっそり学んでいろよ」と自分に思ったりもします。

また、具体的なアクションを伴わないブログに意味はあまりないと言われれば、その通りとも思いますし、「お前が行動していないのに、誰かに「動こう!」も何もないだろ」とも思ったりもします。傷ついた人に花を届けたいけれど、花なんかいらないから行動を起こせよと言われるのではないかと、、そんな罪悪感に似た思いで、書いていた気がします。花は牧歌的過ぎるのだろうか、、けれど、、僕がまずできるのは、その柔らかい部分の痛みに少しでも寄り添うことではないか、そんな風にいまだに思ったりする自分もいるのです。

(その結果、どうも今回のブログに言い訳が多いなと思うと同時に、でも誰かのしかもたくさんの壮絶な苦しみを前にして、自らの苦しみを飲み込んだり、隅に追いやってそれはそれで苦しくなる人もいるのではないか、そんなことも思いながら書いていました。その思いも未だにあります。)



また、ブログ中の


僕の理解が足りなくて二次被害的なことを書いていないとよいけれど、書いていたら指摘して下さい。自分の至らなさを引き受けるところからはじめるしかないと思ってもいます。それは、僕だけではなく。

↑ここについて、

これは違うなあと今思っています。

やっぱり書いてからじゃ遅いことはあるなと。

「二次被害的なことを書いていないとよいけれど」の覚悟なら、まだ公開しない方がいい話だなと思っています。誰がが傷つく代わりに僕が学びを得るなんて割に合わない話だ。これも駄目だ。反省です。

(同時に、こう書くと「世界を口籠らせる」方向に体重を乗せてしまうことになる気もして、これはこれでいいのか?とも思いつつ、しかしSNSという場所は何をどうしても晒され拡散されてしまう場所であるし、そこで語られる言葉が簡単に波を起こし人に深い傷を与えてしまったりするので、やはり言葉には慎重であろう。というか、「世界が口籠る」必要は全然ない。ただ、言葉に責任を持って、言葉は丁寧に、想像力を持って使おうと思いました。)



僕がハラスメントについて、時間をかけて考えていくのは、きちんと勉強するのは、これからです。

元々のブログにあるように、僕自身の演劇体験と家庭環境を見つめ直さないと、僕の言葉にならないので、少し時間をかけて考えます。


色々と反省しましたが、開きなおったり、放棄したり、勝手にネガティブになったりするつもりはありません。いや、落ち込んだり怖くなったりはしましたが、ネガティブになるのはそれはそれでずるいなと。(↑僕の思う「開きなおる」は「もう、知〜らない!」とか「もうブログ書くのや〜めた!」とかそういったものです。)

そして、世界は課題だらけなのですが、まず自分が健やかにのびのびと過ごすことが、結果的に世界と関わることの善き入り口だと僕は思っています。そこは信じていたりします。いや違います。違いました。そこは死守します。誰になんと言われようと自分の健康と誇りは自分で死守します。


謝罪したり、急に宣言したり。。

どうにも白い部屋を1人でうろうろするようにして書いていました。。

最後までその部屋をうろうろして終わるのは何だか卑怯だなと思い、いや、僕が嫌で、急に扉を開けて終わりました。


何だか白い壁に何度も言葉が跳ね返ってしまうような

跳ね返る言葉に1人で踊らされていたような


他者への想像力や敬意は常に持っていたいです。

同時に、自己の中に他者の警備パトロールを住まわせないことも大切であると思っています。



長くなってしまいました。


読んでいただきありがとうございました。



藤尾勘太郎





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