悲しいことが多いと
「傷つく」ということに鈍感になる。
「傷つく」ということが日常になると、それをかわすことに鈍感になる。
なんとも悲しい事実だなと思う。
これは、分かる人にしか分からないことかもしれない。いや、少なくとも僕においてはそうなのだ。そして、これは「傷つかなくなる」ということを意味する訳ではない。
「あ、これは、イヤだな」と咄嗟に身を翻す間も無く、喰らう。喰らう際の些細な心の痛みなど、とうに日常である場合、避けるという判断がそもそもない。なくなってしまう。
日常生活で咄嗟に「些細な苦しみを避ける」という判断を下せる人を見ると、ふと、「ああ、これは苦しいことなのか」と分かる。苦しいなんて当たり前の世界にいるとそのことが分からなくなる。風が肌に触れるように「傷つく」ことも日常化して気にならなくなってしまう。
傷をもつ人は、他者の傷にも優しくなれる。
それは過程としては真実だけど、常習化してしまった痛みのままでは、懐は広くできない。歯を食いしばりながら優しくするなんて嘘だ。自分の痛みを背負いながら他人の痛みなんて、手に抱えられない。自分のことばかり考えながら演技するのと同じく。
かさぶたはとれるまでが完治だと思う。かさぶたが人を守り、生きやすくしてくれることもあるだろう。でも、かさぶたなんていつかとれてなんぼなのだ。必ずしも今すぐでなくともよい。
断定なんてできない。
僕なんて心に致命傷を負っていないから生きてこられたのだし、それは出会った人たちに感謝である。
ただ、些細な傷に鈍感でいる方が、大きな傷を負いやすい。残念ながら生き物はそういう風にできている気がする。小まめに風邪を引かないと、大病を患うことと同じく。
ましてや、僕は「些細な心」を扱う仕事をしている。敏感であることや、傷の記憶は、仕事の動機にはなれど、仕事をする上ではニュートラルな身体が必要だ。
僕自身、今わりと健康で、こんなことを書くと心配されやしないかとか、不思議な気苦労もあるけれど、うん、今は健康です。
それより、きっと、誰かに宛てて書いている。
特定の誰かにではない。
でも、ふと書きたくなったのだ。
戦中や、生きることで精一杯の時代では、そんなことに構っていられなかった。現代の若者は軟弱だと言われれば、そうとも捉えられるし、繊細さなんて、顕微鏡を使い始めたらキリがない。
しかし、今は戦時中ではないし、景気がいいとも思わないが、それでもなかなか餓死しない国に住んでいる。
これまで生きることに必死で、なりふり構わなかった、構われてこなかった、それが当然だと思って我慢しなければならなかった「傷口」たちが声を上げ始めている時代だと思う。
衣食住満ち足りているからそんなことが言えるのだと言われればそうなのかもしれない。分からない。
でも、もうこれから、そういう時代に入っていくのだと思う。ある意味「痛い」を痛いと言える時代が。あと100年もしたら、世界はかなり表情を変えるのだと思う。
傷を負わない生き方を求めたいわけではない。傷が人を育てるのは、生物学上、芸術学上、真理だと思う。若いうちはたくさん傷つけ、公園から危険な遊具を撤去するな、目をつぶったまま自由など振りかざすな、とも思う。
致命傷を負わなければ、傷は受けた方が勉強になる。でも傷を当たり前にするな。
そして、誰もが傷つかない社会を目指すのではなく、傷ついた時に誰もが立ち上がれる社会であってほしいと思う。きっと後者の実現の方が面倒くさいのだ。そして、前者を選ぶのは安易だ。(いや、安易とも違うか、そこだけ掘り進んでも、幸福の実現との距離は変わらないと思うというだけか)
繊細さと軟弱さは違う。
繊細で強いは成立するけれど、軟弱で強いは成立しないのだ。
何故こんなことを書いているのか分からないけれど、そういう夜もある。
僕は元気です。
立ち上がりましょう。人に優しく。
あ、SNSを見ていて、「あー、これって本当に、やっぱり、細かく傷つくツールだな」と思って書き始めたのを、今思い出した。それは、「SNSによって、自意識の肥大化が云々」と言った話ではなく、他者を尊重しない言葉は心が傷つくという単純な話。銃弾を撃っていると思わずに撃たれる弾が多過ぎる。あるいは、正義の名の下に引き金を簡単に引きすぎる。はたまた、仲間がいるから自分も撃てるが多過ぎる。
強く生きたいですね。
強く生きるためには鈍感に傷ついてる場合じゃないですよと、客観的に思ったということ。
芸術はすべからく暴力的であり得る。
コマーシャルやデザインは尚のこと。
それでも選ばなければならない。
傷跡が完全に消えることなど、おそらくない。
それでも傷を負ったまま歩くしかない。
不思議なほど自分に引きつけて書いている心地はない。
世の中知らないことだらけ、日々勉強。人に会おう。