「夏の夜の夢」
4m×4mの絵を描き終わり。不思議な体験であった。
あの大きさの布に絵を描くという行為は、不思議な疲れ方をする。僕は絵描きではないし、先月あたりのブログにも描いたけれど、絵の具を使うのも10年ぶりぐらいだ。
1日長い日でも6時間ぐらいしか絵に向かっていないにも関わらず、描き終わると、今まで疲れたことのない部分が疲れた。しかし不思議と1日の作業を終える時、さっさと続きを描きたくてしかたないまま帰宅するのだ。
それは俳優の作業ともデザインの作業とも違う。まあ、比較的デザインに近い要素もあるが、デザインより圧倒的に感覚的であると感じた。
今自分が立ち向かっている世界で何が動いているのか、それをキャッチしようとアンテナを張り続けていた。どこにどの色をのせたら、どう絵が動くのか。
描いている間の時間は、絵と対峙している時間は、あっという間に過ぎゆき、時間が歪む。自分はもはや自分ではなく変化し続ける絵だけがそこにある。
などと語ると大層な絵描きみたいで、顔から火が出るほど恥ずかしいが、絵を描く仕事も俳優業も同じ、必要以上に自分を卑下する必要もなければ、必要以上に自信家になる必要もない、いや、少しでも自信をもてるならもてばいい。できることしかできないし、できることをやるしかない。
完成した4m×4mに対して、「下手くそだなあ」と思う部分があるかないかで言えば、大いにある。なんて言うと依頼主に怒られるけど、僕は下手くそでもそれでも、もうしょうがなく絵の進むままに描いたのだから仕方がない。そして、とにかく進み続けたことで、僕は僕が想像していなかった絵を描けたし、きっと何かがはみ出している。僕が描いたのか僕が描かされたのかどうかだって分からないのだ。
頭の中で思い描いていることを形に起こすことよりも、はじまってしばらくしたら、目の前で動き出してしまっている絵に従った方がよいと判断した。
たとえば、もっと少ない塗り込みで描き切れたらよかったなあ、などと思いもする。結局一撃で仕留められなければ塗り込みはふえる。その一撃までは、僕はまだまだ時間がかかるであろうことは学んだ。しかし、その一撃に足りないぶん必死で塗り込んだ何かはのっているはずだ。そう信じている。
その一撃。たった一筆のために絵描きは毎日絵を描き続ける。
絵を描いていた時に、携帯にメモした言葉をペーストします。
「画家は、偶然の一筆を必然にするために、日々デッサンを重ねる。俳優もまた、偶然の瞬間を必然として繰り返すために日々稽古をする。たまたま描けてしまった線でなければ本物ではない。ブルブル震えながら上手くやってやろうと意気込んで頭で考えた絵など、何も起こさない。それは俳優もまったく同じだと思う。」
なんかそれっぽいことメモしてますね。
でも、いまでもその通りだと思う。
もうひとつ、最後に、不思議な体験をもうひとつ。
ある日、絵をほぼ描き終わり、これで終わりでもいいけれど、渇いた絵を数日後に見て、それで最後に修正を加えるかどうか決めようと判断して、ちょっと日をあけてから、改めて作業場に向かった。
そこで数日ぶりに絵と対峙してみると、絵はシンと静まり返っていた。
絵を描き続けていた時は、常に動き続け、変化し続けることがあたりまえなグニャグニャした存在だった絵が、数日経つと、シンと静まり、絵の具は布にすっかり定着し、もはや僕が立ち入る場所はなかった。
30分ばかり眺めていると、手を加えられそうな気がする箇所は見つけられるが、今の自分と絵との関係でそこに手を出すと、全体が総崩れになりかねないような怖さを感じた。
ああ、もう手を離れてしまったな。と思った。
1時間眺めて、手を下すのをやめて、「完成している」と判断した。
(厳密に言えば、ほんの小さな追加と、サインだけして終了した)
あんな大きな絵と格闘できたことは、とても貴重で、不思議な体験でした。
そして、はじめての体験というのは饒舌な感想になるものですね。
おやすみなさい。
明日は「ひとみゅー」スタジオ入り。
この体験が「foufou」にも生かされますように。
観に来てね!!