感染症の影響下、公に何を書きたいのか分からなかったけれど、だんだん言葉がフツフツとしてきたので更新します。
今年、僕は舞台が2作品延期になり、今年はもう半年以上舞台に立っていない。なんなら今年いっぱい舞台に立つ予定はない。
焦ってはいない。「焦らず行こう」は僕が自分で決めたことであり、「今」に対しての僕の判断であり、処方箋でもある。
自粛期間中、他の舞台人がどう過ごしているのかに目を向け過ぎると自分の場合危険だなと思ったので、一時期SNSも見ていなかった。(SNSはスパイスが強すぎて、心が消化不良になりそうだったのもある。)
演劇をずっと続けてきて、半年以上舞台に立たないのはははじめて。
その経験は、それはそれで面白そうだと思っている自分もいたので、その感覚を優先した。
焦っても仕方がない。
空間がぽっかり開いてしまったら、急いでそこを埋めようとしないこと。
もちろん感覚は人によって違うから、何かを失わないために走り続ける選択を選ぶ人もいると思う。
僕の場合、思いっきり放っておいて勝手に生えてくるものを信じようとか、そんな選択をした。半年何もしないことで失われるようなものはいずれきっと手放す。何が生えてくるんだろうという実験。
とは言え、気づけば11月になり、クリスマスソングがフライング気味に流れ出し、そろそろ色々とフツフツしてきたので、また、11月は「やりたいことはとにかく実行する」とTwitterで呟いたので、その狼煙を上げるためにもとにかく書いてみる。
というか、「やりたい!」と、思ったことって放っておくと結構、熱が覚めてしまうから、さっさとやらなあかんなと思う。
今回はやりたいことを羅列して、あと日々のメモを貼り付けてみる。
1.週一とかで、zoomで良いから人と話す。対話してみる。
これは、言葉で自分の考えを人に伝えるスキルを上げたいなと言うことと、自分1人で何かを考えるより、誰かと話した方が理解が深まりそうという予感によるもの。知識や見識をシェアできる場所があるといいなと。
2.毎日、誰かと戯曲を読むことを日課にしてみる。生でも画面越しでも。
単純に役者としての筋トレ。デザイン仕事をしていると日々の予定がデザインに占領されてしまう。意識的に俳優としての時間を奪い返したい。決めてしまえばやるしかない。
3.演劇の訓練を日々のルーティーンにしたい
何ができるんだろうと考えている。
4.役者がそれぞれどうやって芝居を組み立てていっているのかインタビューしたい。(50人ぐらい)and 「芸術」をどう信じているのか聞きたい、知りたい。
興味。前者は興味。日々の何ができるかにつなげたい。後者は、僕自身が芸術や文化の価値をいまいちよく分かっていないから、聞きたい。芸術は好き。でもそんなに芸術ってすごいの?と疑ったりすることを行ったり来たりしている。僕は芸術に救われたとか、救われているという感覚があまりない。
ざっくり言うと、「日々稽古したい」ってことと、「話を聞きたい/話したい」ってことですね。
他にもふつふつはたくさんあるけど、ひとまず。
続いて日々のメモ。
数年前から、言葉がふつふつとしたらiphoneのノートにメモしている。
「1」のようなことをやる時に、そのメモのトピックをテーマに?とっかかりにして話すのも面白そうだよねえとか、思ったりしていた。そうすると、考えが発展させられたり、「それは違うよ」と言ってもらえるかなと。(あ、ただそのためにメモしてる訳ではないです。)
正直「1」に対して、モチベーションの賞味期限が切れかかっている。けれどまあ、全てはとっかかり。どこに辿り着かなくてもいい。メモを貼ってみる。
ただのメモなので分かりづらかったり、冗長だったり、言葉足らずなことも多々あると思います。でも、何か、うん、やはり、貼ろうと思ったので貼ります。
・人の身体は磁力を発する。発するのもを引き寄せるのだ。あんなものいらないいらないいらない!と念じれば、もれなくあんなものが届く。そんな感じなんてミラクルにできている。
磁力を使おう。未来を引き寄せよう。無茶祭で磁力をおこそう。
無防備な約束をしてしまおう。そうすれば未来は彼方さまからやってくる。
心躍る表現を見ると、磁場が生まれる。自分の中のワクワクがムクムクしだすのだ。
・24時前に月が沈もうとしているのを見て、おいおい、まだ夜ははじまったばかりだせ!?と脳内で呟いたけど、よく考えたら夜はとっくに半分終わっている。これが夜型なのか。夜は22時ぐらいからはじまって、それまではとても暗い昼ぐらいの感覚がある。。
・言葉は自然とぷくぷくしてくるもの。 ぷくぷくしろ!と言われるとあっという間にぷくぷくしなくなる。このことを考えたい。
・虫取りおじさんになりたい ワクワク工作おじさんになりたい
誠実な役者になりたい
トリックスターになりたい
心の柔らかい部分に触る絵を描きたい
これが僕の声ですってLiveしたい
踊りたい、踊れるようになりたい
世界中の美しい景色を食べたい
生花の中に世界を見たい
人の笑顔を見たい
人が心を開いた瞬間に触れたい
大事なものを手渡す瞬間に触れたい
演劇はかっこいいんだって知らしめたい
身体の研究したい
デザインで人を愛でたい
美味しいご飯を好きな人と食べたい
僕たちは美しいということを分かち合いたい
分断にヨレヨレの橋を架けたい
多摩川に勝手に椅子を設置したい(50脚)
猫と暮らしたい
天使になりたい/天使でありたい
立場の弱い人の味方でありたい
「芸術」という言葉の意味することを知りたい
美しくありたい、美しさに触れたい
・「マジか!」とか「ヤベエ!」とか、僕はそんなに使わないのだけれどこれらの言葉、に、時に「その言葉で済ませずにもっと別の言葉を探しなさい」という指摘を見かける、見かける?まあ、僕もそう思う。ただ、最近海外のネット番組を見ていると、外国の人はすぐに、「オーマイガー」「オーマイグッネス」って言う、かなり、「マジか」「ヤベエ」に近いニュアンスでとにかく多用する。いい意味でも悪い意味でも色んなニュアンスで使える言葉。同じじゃんってふと思う。宗教的なバックグラウンドがあるにせよ、なんか同じじゃんって思った。
・正直、しゃべることよりしゃべらないことの方が倍は好きなんだ。でも、しゃべることでコミュニケーションすることがなんか当たり前らしいから、しゃべっている。
・僕たちは、誠実なフリをして生きていくしかないんじゃないだろうか。自分は誠実だと思い切れてしまうことは誠実さとちょっと遠い気がする。
・容赦しないって、大事だなぁ
・物事を変えていくのは自分しかいない。
しんどさ、悲しみは結局のところ僕のものでしかない。
そして、悲しみの質感を誰かに理解してもらうことに囚われると、「自分の悲しみ」を大切にしてしまう。伝わらないというハードルを前にして、「自らの悲しみ」にオリジナリティを与えてしまう。図らずも。
「こんな悲しみはつらい!なぜなら〜!」と、理由を列挙するほどに、人は悲しみに囚われてしまう。そんなつもりはなくてもいつのまにか悲しみに栄養を与えて育ててしまう。
悲しみや不安なんて、必ずしも人に伝えなくてよい。
また、自分の心の中でも、悲しみをよく観察することはあまりしない方がよい。人は「見る」ことで対象を育んでしまう。
では悲しみに対しての処方箋とは何だろう。
自分自身と向き合うことと、悲しみと向き合うことは違うのだろうか。
ひとつの指針として、その悲しみを伝えようとした時の質感に「被害者意識」のようなものが芽生え出したら、さっさとその悲しみは手放した方がよい。あるいは、解決に向けて動くのがよい。
ボールを受け取った瞬間は能動的でも、ボールを持ち続けると、人は途端に受動的になる。
・違う立場に対するレッテル、ラベル貼り。公の場に何かが提出されると、あっというまにラベルが貼られて、その意味は限定されてしまう。
・昭和のオモチャやら家電の広告を目にするとアホみたいに純朴なキャッチコピーが付いていて笑える。そして、「ノンキでいいよ!!!笑」と言いたくなる。
「あの頃はよかった」と言う人に、「ああ、ハイそうですね。今の方が生きることは大変ですね」と言いたくなる。
スピログラフの広告には「僕も、わたしも天才デザイナー!!」と書いてある。
・海外の優れた舞台を見ると、アクションが非常に多いことが楽しいし、勉強になる。言語外の行動が非常に豊か。
・快速電車みたいなお芝居がしたい。
各駅停車を確認しあいながらのんびり走らせるお芝居じゃなくていい。
「快速電車同士が対立したら、大事故になっちゃうよ!!?」という演劇は観ていてスリリングだ。
・暗い夜道を歩いていて、目の前を女性が歩いている。どうも向かう方向が同じである場合、僕は少しスピードを上げて追い抜く。「変な人が後ろから付けてきてる」と思われたくないという妙な気苦労から、安心させたくてさっさと追い抜く。妙な気苦労。心がソワソワする。
かと思えば、ジェントルマン的な前向きさで、女性を追い抜くこともある。この時、心はソワソワしない。
違いは何だろう。出来事に対して、能動的か受動的かの違いなのかも知れない。
・愚かな兆し、愚かな証拠を見つけて、「ほら、だから世界は愚かなんだ」と語るペシミストに与することはできない。
・情報と感情について思う。この2つは密接なのだろうか。密接でよいのだろうか。あるいは、密接であるしかないのだろうか。既に興味のある畑にしか情報は植えられないのだろうか。僕はそれは、そうなのだと思っている。興味のないことに人の心は鐘を鳴らさない。ある種の偶然が重なることで、思わぬことに興味をもち、学びが発動しはじめる。その時はじめて情報が意味をもつ。この「学び」についてを学んだ人は、知らぬことにたいしてのアンテナの張り方が変わる。そこを知らないと、ずっと知性のアップデートはされないし、起こったことを自らの手札でのみ判断してしまう。
他人の靴を履いてみないと、自分のサイズと違うということは知れない。
・演劇は生命力の祭りだ。演劇は生命力の祭典だ。役者は誇り高くあらねばならない。クヨクヨしている場合ではない。(クヨクヨしてた訳じゃないけど)役者は誇り高く、強く、優しく、獰猛で、ユーモラスで、責任感が強く、美しいのだ。
反骨精神とも繋がる。どんな稽古場であれ、自らが誇り高いこと、そのことを自分が信じなければならない。私は誇り高いのだ。そのことは誰にも奪えないし、そして、私以外の誰も、私に本当の誇り高さを与えてくれはしない。私が私をそうあらしめるのだ。
もっと動物的でありたい。孤独や不安を恐れるな。裸でそこに飛び込んでいきたい。
ありふれたのニヒリズムに安住などするな。
私は美しいのだ。
長い。。。
ご清聴ありがとうございました。
これまで植物のように獰猛でありたいと思っていましたが、最近は舞台に立っていないせいか、動物のように獰猛でありたいと、より動的な欲が出始めています。
知性を怖がらず、同時に野生にブレーキをかけずに生きたいと思います。
藤尾勘太郎
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