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  • 執筆者の写真ふじおかんたろう

悪夢を見た直後のメモ

今朝悪夢を見た。

どうにもそのあと眠れなくなってしまい、その時思ったことをメモしならが眠れるようになるのを待った。

その後、無事眠り、起きてみれば天気もいいし気分も悪くない。改めて、「昼」と「夜」の違いに感嘆する。こんなにも日が出て空が青いことにエネルギーをもらえる。昼の海と夜の海は違う。昼の森と夜の森も違う。


せっかくなので、今朝のメモをペーストしてみる。そのあと少し追記。

(悪夢直下で書いていたので、理路はざっくりしてるかも。)

視覚イメージの世界、人によってどう違うのだろう。





10.29

・なぞの悪夢を見る。ゼルダの伝説みたいな世界観の悪夢で、というかゲームの世界で、僕は何かから逃げていて、何かに追いつかれそうになる度に、前のセーブポイントから世界をやりなおして、逃げて。

毎度毎度、悪夢に潜む「恐怖や不安の結晶感」たるや。

目が覚めてから闇が怖くて眠れない。外から来る物音のすべてが不穏に聴こえる。

目が覚めた時身体がこわばっていた。

しばらく闇が怖く、声に出して「大丈夫」など言葉にしてみるもなかなか効かず、ああ、まだ身体が固まっているからだ、身体が縮こまったままだと気付きブラブラ動かしてやったり、身体からアプローチしたり呼吸を色々使って緩める。

さてしかし、意識しないようにしないようにとすればするほど、意識はそっちに引っ張られたりするもので、寝ようとしても一瞬闇のイメージが脳内に生まれると、一瞬にしてまた全身がこわばる。


視覚イメージの世界って、人によって違うのかな。僕はどんどんころころイメージは姿を変えるのだけれど、その変えている最中、ふと興味本位みたいな感じでそのイメージが負の方向に転がり出してしまう。これは、何をどうしたらいいのだ?例えば電車をイメージしたら、電車が脱線してしまうイメージがその後のイメージの中に混ざってきたりする。何かに乗っていれば落ちる。近くに来た人は目の前で鬼のような何かにメタモルフォーゼする。この世のあらゆる場所に闇への入り口があるのかと思えてしまうほど、視覚イメージの世界は簡単に闇への連想ゲームをはじめてしまう。


多くの場合、少しぐらい連想の中にそのイメージが入り込んで来ても大丈夫というか、跳ね除けられるのだけれど、(そう言えば、誰かが襲いかかってくるイメージへの変化はよくあって、「よし怖がらずにそのままその襲いかかってくる何かを抱きしめてあげよう」と決意したりもした。)しかし、さて今回はなかなか困難だ。跳ね除けることが難しい。闇が鎮座してしまう。闇に一度興味をもってしまうと、そこに心を奪われる感覚というか、興味が闇の奥を覗かせてしまう。


寝ようとしてもなかなか無心にはなれない。視覚イメージが連想ゲームをはじめる。なんとかポジティブな状態を維持しても、そこに闇が顔を出すのは簡単だ。一瞬で転覆させられるし、一瞬で反転させられてしまう。

こうして言葉にすることで、落ち着きたいのと、「あれ、これも思考の癖なのか?」と整理してみたいのとで、書き出しているけれど、それでも闇への不安が消えはしない。感覚的には闇への興味を捨て切れないような、そんな感じの胸のあたりのひっかかり。

人形のイメージがわけば、その人形が変な顔にメタモルフォーゼしたり、奇怪な動きをし出すのは一瞬でできてしまう。何かの心の引っ掛かりがある限り、簡単にその変化が起こる。というか視覚イメージの世界はあまりにもルール無用で、なんでも降りてくるようにイメージが移り変わる。見ないようにと意識すればするほど、ふと顔を出す「不安」。高い場所にいれば落ちるイメージ。その先に尖った塔が現れたりもする。

1番多く連れて行かれてしまうよくある嫌なイメージは、ものすごいスピードで前に投げ出されているイメージ。前に落ちていくというか、いくつものものが私の前に当然ぶつかろうとしてくる。それは恐怖だ。なんとか「自分の身体は実は透明である」という設定を持ち込んで、次々と飛んでくるイメージとの正面衝突をさける。すり抜けさせる。(具体的に言うと、衝突のイメージで自分の身体が実際に強ばるのを避ける。という感じ。)

時にマリオのスターをとったと自分に思い込ませ、気分を和らげる。

そんな設定を持ち込む意思より、勝手にメタモルフォーゼしていく視覚イメージの世界の方が優先権があるというか、意思はいつも後手に回る。意思の力で、「よし、もうそんなイメージみーないー」と決めることが難しい。意思より、視覚イメージは軽く早い。私の意識が早くても特別快速のような速度だとしたら、メタモルフォーゼの世界は電子の速度。うまく言えない。そんな感じ。ほんとに0.0001秒みたいな世界。


書いてみたいと思ったのは、こうした負のイメージ、それを積極的に生み出しているのは僕なのではないか、僕がそれを選んでしているとしたら?と考えられるかも知れないと思いもしたからだ。

他の人はどうなのだろう。

主に目をつぶって寝る時に多く触れる、広がる視覚イメージの世界。万華鏡のように変化する中で闇、負のイメージが混ざり込むことは、僕にとって、「空を見上げたら鳥が飛んでいる」ぐらいの当たり前さ、であったのだけれど、そうじゃないのだろうか。これは僕が選んでいるのか?ただここですごく難しいことがある。「では意識しないようにしよう」と決めたところで、かえって意識してしまったり、ギリギリのところで負のイメージの登場・転化を僕は許してしまう。正確にはどこか、そっちへイメージを変化させることへの興味?みたいなものを少し奥に感じる。普段乗り物にのって、危険なイメージを連想して怖くて乗れないというようなことは一切ない。本当に一切。はてさて。

闇や負のイメージに身体が持っていかれそうな時、そんな足場の悪い場所で考え事をしないで、もう少し陸地にあがって、お日様が登ってから考え事をした方が、健全だとは思う。ただただそこには近寄らない。ということでもよい。


ただ、なーーんか、あれ、このメタモルフォーゼの在り方、いかんともし難いものだと思っていたけれど、これは、僕の中の何かの癖?何かの不安の傾向?なのかな?と思い、やや危険な場所で水面を覗いてみている。

つまり、視覚イメージの世界で、イメージが負の方に転ぶことに、僕は責任を負ってこなかったし、勝手にそうなってしまうモノぐらいに思っていたけれど、ある種の無意識の世界の仕業、そういう意味で言えば、ある意味被害者は自分というような印象があったのだけれど、そうじゃないのかな?というような。


さて、そろそろ窓の外も白んできたし、寝ることもできるのではないか。


日光ってすごい。そして、夜というのは、時に、夜であるだけで、すさまじい闇をつくりだす。引きずり込まれるような闇。これは本当に夜特有だ。


この後起きて、さて僕はこの悪夢をどう振り返れるか。(振り返る必要がないのか、そこは迷うところ。)



追記

視覚イメージが危険な方に転化する時、そこには何か、「反証」みたいな側面があるのかな、それに近い何か。僕は普段からものごとを一側面からだけ見るのが好みじゃないのだけれど、「異なる側面からも見ろ、よくないシチェーションも考慮に入れておけ」と無意識領域で言われて、バッドエンドも同時に体験しておく。みたいな。「別の側面からも見ようとする興味」と「闇の側面を味わう興味」の質感がなんだか近い感じがする。そのあたりに答え?というか、闇の湧き水の出どころがありそうという感じ。

これは見方を変えたら、「負のイメージ」は「ブレーキ」として機能する。「ブレーキ」は身の安全を守ると同時にアクセルを思いっきり踏むことの歯止めになってしまう。もしかしたら、そんな「ブレーキ」に何かしらのメリットを僕の奥の方のそのまた奥の僕は感じていて、そんな無意識に近い場所に住む僕が、負の視覚イメージ、それが走るレールを敷くのかもしれない。

夢の内容なんて勝手なものだと思っていたけれど、もしかしたら何か発見がありそうだ。厳密には夢のイメージと、意識がある際のとめどない視覚イメージはまた少し別。



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