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  • 執筆者の写真ふじおかんたろう

ふとお芝居のこと

自分の言葉で、相手がどれほど傷つくか。


その時、相手に嫌われるかもしれない、軽蔑されるかもしれない、関係が切れるかもしれない、相手の心に深い怒りや悲しみを植え付けてしまうかもしれない、相手の人生を著しく変えてしまうかもしれない。そのことを承知して相手に伝える時、もしくはそのことに怯えつつも、それでも伝える時、目の前の相手の情報を僕らは本当につぶさに受け取る。



自分が勇気を出して伝えた後に、相手が黙ってしまった時、相手が何を考えているのか分からない時の恐怖といったらない。


お芝居でも、忘れずにいたい。

目的達成マシーンになったら、そこにドラマはない。感情発散マシーンになったら、そこにドラマはない。

そんなことを思う。


大事なのは自分の役じゃない、相手の役だ。自分の役のことも考えなければもちろんいけないが、その「自分の役」は目の前の相手のことをつぶさに見ている。自分のことより相手のことをよく見ている。自分のことなんて感じたりしない。相手のことだけを感じている。

日常を思い出せば当然のようにそうなのに。


自分の心の機微にばかり敏感では、舞台に立てない。相手の心の機微に敏感でありたい。生きていればみんなそうであるように、僕らの心を波立たせるのはいつだって誰かで自分じゃない。自分は、自分の中に生きているんじゃない。他者との間に、世界の間に生きている。


普段、こんなにも、些細なことでソワソワしたりするのに。些細な顔色、微かな噂、ふとした失言、一瞬の沈黙、返ってこない返事。そんなことでソワソワするのに。舞台の上でもそのぐらい肉薄したい。


その人がどんな人なのか。自分をどう思っているのか。その人は、どんなことで喜びどんなことで傷つくのか。相手が大切な人であればあるほど、その人のことをよく知っている。どこまで踏み込んだら嫌がる人なのか、どんなことで笑うのか、どんな過去があるのか。相手が憎い人であっても、憎ければ憎いほど、対象のことをつぶさに見て、知っている。愛も憎しみも、その誰かの専門家に近い。

その言葉で相手が傷つくと知って語るのか、知らずに語るのか、まるで別の出来事になってしまう。



愛する人を傷つけたくない。その人の苦しみを感じるのが苦しいから。苦しむその人の眼差しが、声が、苦しく、怖いから。

なのに、時に、舞台の上では、愛する人を目の前にして、「愛する人を苦しめる苦しみを感じる俳優」が出現する。目の前の人が傷ついていようが、おかまいなしに自分が傷ついていることだけを表明してしまう。


お芝居は自分の感情や技術、歴史の博覧会じゃない。

お芝居は、人間関係の芸術であり、結果としての生命讃歌だ。(研鑽された技術や燃え上がる魂、美しい孤独、気高い精神それ自体が、それ自体だけで生命讃歌であることはもちろんのこと、今は少し別の文脈。)



すべて自戒。





うそだ。世界に言っている。


自分をふくめまくった世界に。



相手のことを好きであればあるほど、嫌われたくはない。「嫌われたくない」ってバカみたいな響きだけど、日常生活で往々にしてある欲望だと思う。

「ユーモアがないと思われたくない」と同じぐらい人の態度に影響していると思う。性格が明るい暗いに関係なく、人は「ユーモアがない」あるいは「つまらない」と思われたくない生き物だと思っている。認められたい相手であればなおさら。(敵対したい場合、そんなこと気にしないこともあると思うけれど、相手に対して優位に立ちたいからユーモアを発揮してみせる、とか、人はする。)(ユーモアとか気にしないでいられる時、人は相手に安心しきっているのかもしれない。分かんないけど。)


作品が扱うものの重みが増せば増すほど、そんな当たり前のことを置いてけぼりにしてしまったりする。


他者の傷に鈍感では役者はいられない。


僕はどれだけ、そんな風に舞台の上にいられたのだろう。

自信はないし、反省だらけだし、わりとサボるし、かなりサボるし、気づけば自分の役のことばかり考えたりしちゃうこともあるし、怖がりだし、言葉に振り回されるし、時に足は震える。日常の僕はまだまだ勇気の二の足を踏む。日本刀みたいな切れ味の覚悟を持ちたい。

それでも勇敢にいこう。


ある演出家が言っていた、「点が見たいんじゃない、点と点を繋ぐ線が観たいのだ」というような言葉を未だに覚えている。この言葉自体引用だった気がするけど。


お芝居はもちろん色んな考え方、表現方法があるし、登山ルートは色々あるとも思うけど、僕はやっぱり「状態の博覧会」は嫌だし、自分が今書いたことはきわめて「普通」ではないかと思うし、自分が大切にすることを捨ててお芝居をしてどうすると心から思う。


他者と関わる姿が見たいし、傷付かずに突き進める姿より、傷ついても相手と関わる「強さ」に美しさを見るし、僕にとっては、うん、やっぱりそれが見たいもの。相手を必要とすればするほど、相手は輝く。(傷つかない圧倒的な悪!とかも、時にかっこいいんだけどさ。でも、そんな素敵な悪は大抵世界に対してめちゃめちゃ開いている。)


「好き」があれば、自然発生的に「好きではないもの」が生まれてしまう。「大好き」や「強く信じるもの」があればあるほど、そこに当てはまらないものは増えてしまう。この物理法則みたいな線引きがとても嫌だし、そこは分断の温床だけれど、簡単に「無関心」を持ち込めるほど世界は狭くない。と僕は思う。




突然の久しぶりのブログ。

なんか突然書きたくなるもんですね。

書いていて恥ずかしい。でも、まあ、書きたかったんだから仕方がない。


そして、書いといてあれだけど、ヤダヤダ気楽にいきたい。とも思う。でも一回ギアが入ると頑固なんだなあきっと、私は。お風呂入ります。アイスはもう食べました。


明日は野に咲く花を眺めよう。




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